90年代。日本では狂乱のG-SHOCKブームが巻き起こったが、沈静化した後は長らく不振が続いていた。それでも耐衝撃性能というコンセプトを守り続けたことで、徐々に再評価が進み、今ではライフスタイルツールとして、完全に定着している。
その勢いをアメリカに持ちこんだのが、執行役員 米州地域統轄担当の伊藤重典さん。彼の別名は「ミスター G-SHOCK」。そのキャリアはG-SHOCKの歩みと重なる。
「アメリカで成功した理由は、日本の失敗を生かしたから。日本でブームが去ったのは、最盛期に時計を作り過ぎてしまったのが最大の原因でした。そこで生産数を絞って流通をコントロールすることで日本市場を復活させたのですが、そのやり方をアメリカ市場に取り入れました。
まずは販売網を見直し、デパートやジュエラー、さらにファッション系のショップで販売するようにしました。カラフルなモデルを増やしてファッション性を高め、体に合わせてサイズも大型化。同時に品質を高めることで価格をどんどん高くしていきました。かつてのG-SHOCKは50ドルを切っていましたが、今は350ドルが中心価格帯。それでも売れるのは、イメージも向上したからです」
G-SHOCKのイメージアップに貢献したのは、セレブリティたちだった。しかも彼らは自発的に購入した熱心なG-SHOCKファンだった。
「初めにG-SHOCKファンを公言したのは、ヒップホップの超大物カニエ・ウェストでしょうね。そして彼の影響で周りもG-SHOCKに注目するようになった。エクストリーム系スポーツのライダーには、タフな機能性も評価され、アパレルショップなどでも取り扱うようになる。日本と同様に音楽やファッション、スポーツを巻き込むことで、ユースカルチャーの一つとして認められたんです」
G-SHOCKへの評価が高まる中、満を持して仕掛けたのが『SHOCK THE WORLD』というイベントだった。 「G-SHOCK25周年を記念したイベントが発端でした。アメリカで売れているイメージがあれば世界中に広がっていくだろう…、その目論見が上手くはまりましたね」
ニューヨークでのイベントが成功したのを見て、他の地域でも"やりたい"というオファーが、どんどん舞い込んだという。ロンドン、パリ、上海、香港、バンコク、ジャカルタ…。あらゆるところでイベントを仕掛け、G-SHOCKの世界観が広がっていく。
そしてG-SHOCKは、世界の共通言語となったのだ。