Gressive Off Style Spiceal Vol.6 G-SHOCK 30TH ANNIVERSARY in NYC 30年目のG-SHOCKが示した世界戦略

なぜG-SHOCKは世界を制することができたのか。

見直した戦略とファンが後押し

 90年代。日本では狂乱のG-SHOCKブームが巻き起こったが、沈静化した後は長らく不振が続いていた。それでも耐衝撃性能というコンセプトを守り続けたことで、徐々に再評価が進み、今ではライフスタイルツールとして、完全に定着している。

 

その勢いをアメリカに持ちこんだのが、執行役員 米州地域統轄担当の伊藤重典さん。彼の別名は「ミスター G-SHOCK」。そのキャリアはG-SHOCKの歩みと重なる。

 「アメリカで成功した理由は、日本の失敗を生かしたから。日本でブームが去ったのは、最盛期に時計を作り過ぎてしまったのが最大の原因でした。そこで生産数を絞って流通をコントロールすることで日本市場を復活させたのですが、そのやり方をアメリカ市場に取り入れました。

 まずは販売網を見直し、デパートやジュエラー、さらにファッション系のショップで販売するようにしました。カラフルなモデルを増やしてファッション性を高め、体に合わせてサイズも大型化。同時に品質を高めることで価格をどんどん高くしていきました。かつてのG-SHOCKは50ドルを切っていましたが、今は350ドルが中心価格帯。それでも売れるのは、イメージも向上したからです」

 

G-SHOCKのイメージアップに貢献したのは、セレブリティたちだった。しかも彼らは自発的に購入した熱心なG-SHOCKファンだった。

「初めにG-SHOCKファンを公言したのは、ヒップホップの超大物カニエ・ウェストでしょうね。そして彼の影響で周りもG-SHOCKに注目するようになった。エクストリーム系スポーツのライダーには、タフな機能性も評価され、アパレルショップなどでも取り扱うようになる。日本と同様に音楽やファッション、スポーツを巻き込むことで、ユースカルチャーの一つとして認められたんです」

 

 G-SHOCKへの評価が高まる中、満を持して仕掛けたのが『SHOCK THE WORLD』というイベントだった。 「G-SHOCK25周年を記念したイベントが発端でした。アメリカで売れているイメージがあれば世界中に広がっていくだろう…、その目論見が上手くはまりましたね」

 ニューヨークでのイベントが成功したのを見て、他の地域でも"やりたい"というオファーが、どんどん舞い込んだという。ロンドン、パリ、上海、香港、バンコク、ジャカルタ…。あらゆるところでイベントを仕掛け、G-SHOCKの世界観が広がっていく。

 そしてG-SHOCKは、世界の共通言語となったのだ。

  • 1人気ラッパーの「ICE-T」(写真左)もG-SHOCKファンのひとり。今回のイベントには、ひとりのファンとして、彼女と友人と一緒に会場を訪れた。
  • 2プレスカンファレンスにてスピーチを行う伊藤重典さん。彼の力なくしてアメリカ市場での成功も、世界への進出もなかっただろう。
  • 3高感度ショップで扱うことで、G-SHOCKのイメージは更に向上した。ここはマンハッタンのスニーカーショップ「ファイトクラブ」。レアなシューズと一緒にG-SHOCKも販売。
  • 430周年記念モデルのロゴマークをデザインしたエリック・ヘイズは、世界的グラフィックアーティストであり、G-SHOCKファンでもある。「ユースカルチャーとここまで密接な関係にある時計は、他に存在しない。その独自性がG-SHOCKの魅力ですね」
  • 510年以上もオファーし続けて遂に実現した、スノーボードの最高峰ブランド「バートン」とのコラボレーションモデル「GDF-100BTN」(11月発売予定)。「ついにアメリカでも認められた…と実感できた、記念すべきコラボレーションです」と伊藤さん。

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